中高年者のボルダリングの一つの楽しみ方について
   (クラッシュパッドについて考える)

2004年 3月 2日記
 小生はボルダリングに専念し始めた頃「中高年は1kmとか5kmとかの距離をチンタラ走っても疲れてしまう。しかし、100mならなんとかチンタラ走れる。それも1kmや5kmを走るよりは早く走る事が出来る。」と考え、これに基づいて、中高年はボルダリングだと主張し、ここでも「ボルダラー宣言?」「中高年の為のボルダリング入門」等に書いてきた。この考え方は今も変わらない。

 その後「緩い斜面に飛び降りた時、足首に大きなショックを感じた事が何回かある。・・・少し落ちる高さが高かったり、傾斜がきつければ多分怪我をしていたのであろう。これらの経験から、中高年にとって、この足首の柔軟性の欠如という事がどうもボルダリングに於いては致命傷になる感じがしてならない。」と同じく「中高年は足首がネックか」や「再び中高年にはボルダリングなのか」に書いた。

 しかし、最初は漠然としていたこの危惧が段々と決定的なことだということを実感し出したのである。そして、そのことが小生のボルダリングの実践スタイルに非常に大きな影響を及ぼし、最近のボルダリングのスタイルを変化させ始めたのである。

 そのスタイルの変化とは何か。それは、余り飛び降りることをしなくなった、落ちるようなことはしなくなったということなのである。そしてそれに伴い、クラッシュパッドを殆ど使用しなくなったと言うことなのである。このクラッシュパッドを使わなくなったと言うことは、一般的には、足首を負傷する危険性の削減に大いに逆行することだと考えられるのだが、これを敢えて実践するようになったということなのである。

 それはなぜなのか、その辺のことを少し考えてみようという訳である。

 その前に、クラッシュパッドの役割は何なのかと言うことをちょっと考えることにしよう。

 クラッシュパッドの役割は墜落の衝撃の一部を吸収すると言うことである。或いは、墜落地点の地形を一部覆い隠し、その危険性を減ずると言うことである。そのことによって、墜落者に、墜落時の危険性に大きな配慮をすることなく墜落できるという安心感を与えることである。

 そう、クラッシュパッドとは、安心感を与えるのであって、衝撃を無くす、危険性を無くす物ではないということなのである。この辺のことを最近のボルダラーは履き違えている気がしてならないのである。

 最近のボルダリングでの事故は殆どがパッド使用中の事故なのである。もっともパッドを使わない人の数が圧倒的に少ないから、統計学上の詭弁だと言われれば反論はしない。しかし、パッドを使用しているという安心感、それから来る墜落時の注意の欠如は間違いのない現象だと確信している。そのことから来る事故が相当数あることも確信ができる。

 昔はパッドなどと言う便利なものが無かったから、トップロープによるリハーサル以外では、墜落は即地面への、或いは地面から突出した障害物への激突であった。その為に、いかに安全な場所に安全に着地するかを意識しながら登っていた物である。下地の比較的安全な易しい課題から墜落の方法も学んでいったのである。

 ところが最近は、全てと言っていいほどの人が最初からパッドを使用しなければ登らないし、パッド無しに登ろうと言う発想をしないのである。パッドがあれば安全で、パッドが無ければ危険という発想が定着してしまっているのである。その為に、墜落のための技術と言う発想も生まれないのである。なにしろ、パッドがあれば安全と言う感覚なのである。

 小生がパッドを敷かずに登っていると、わざわざその下にパッドを敷いてくれる人が偶にいる。これは、そういう発想からの親切心なのだと思うが、敷かれる当人にとってみれば予期せぬ出来事であり、着地時のコントロールに微妙な変化が生じるわけであるから、大げさに言うと事故に繋がる可能性も完全には否定出来ない事態であるわけである。

 ジムのボルダー壁からいきなり外の岩に移動してくるボルダラーが非常に多いようだから、そう発想する人達が多いのもうなずける。そして、そういう人達は、外の岩でも、ジムの様にパッドが敷かれているから、ジムと同じ感覚で登る。その為に事故が多いようにも思えるのである。現に、背中から、はたまた頭から墜落してくるボルダラーを目撃することもしばしばである。

 パッドとは危険性を減ずるものであって、危険を無くするものでは決してない。強いて言えば、単に安心感を与えるだけのものなのである。

 足首の懸念が直接のきっかけではあったのだが、実際はパッドの役割をこのように考えるようになったがために小生のボルダーの登り方が変わってきたというのが本当の所だったのである。

 ではそのためにどうして登り方が変わったのかを述べることにしよう。

 パッドが安全性を増すということは否定はしない。しかし、その安全性への過信は返って危険であるということもまた事実なのである。そこで、更なる安全性を求めれば、中途半端なパッドは使用しないほうがより安全だと言う発想が小生の中に生まれたのである。

 このことはパッドの使用を否定するものではない。小生でも、パッドは岩場に持参するし、必要と感じれば迷わず使用している。その、パッドを使うか、使わないかの判断を常にしている訳である。それによって、使うとすればどの場所に置くかなど、常にパッドを意識している訳である。

 そういう発想から生まれる登り方の基本は、足首の懸念があるので、必然的に墜落はしないと言う登り方になってくる。パッドを使用しなければ、墜落できないと言う脅迫がより強く働くから、無理なムーブは出来なくなるのである。また、飛び降りることに不安を覚えるから、敗退の基本はクライムダウンになる訳である。

 なんだ、ボルダリングの楽しみを殺してしまっているのではないか。そういわれるかもしれない。でも、それが違うのである。

 墜落するかもしれない無理なムーブは出来ない。しかし、それをやれば登れるかもしれない。いや、絶対に登れる。でも、落ちたら。無理なムーブを起こすのか、起こさないのか、その辺の判断がまた楽しいのである。登るのか登らないのか、その辺の葛藤が楽しいのである。

 また、あるムーブを起こしてしまうとその先からのクライムダウンが物凄く難しくなる、或いは出来なくなる。その一線を越えるのか越えないのか。その先でもし失敗すれば、意を決して飛び降りるのか、或いは失敗を恐れてそのムーブは諦めるのか、この辺を決断する楽しみもまた増えるのである。

 そう、いかに飛び降りることなく、勿論落ちることなく登りきるか、その辺の駆け引きなのである。

 ということは、当然登れるグレードは低くなる。2つも3つも低くなるかも知れない。でも、その低グレードでも楽しみはかえって増えるのである。登れなくとも楽しいのである。また、登れたときの嬉しさがより増すのである。

 パッドの有用性を否定するわけではないから、より危険性が増せば、当然パッドを使用する。しかし、パッドを使用したからと言って危険性がゼロになることは無い。危険なものはやはり危険なのである。でも、パッド無しよりは危険性が減るから、パッドが無いよりはもう少し危険なことができる。或いはそれによって登れるグレードが上がるかもしれない。そこでまたパッドを使うか使わないかを判断する訳である。

 自分の技量と、その課題の危険性を上手くコントロールして、適度な緊張の中でクライミングを楽しむ。最近はそういう登り方になって来たのである。その少しだけの怖さ、それがもう物凄く楽しいのである。高難度の課題を追い求めるのではなく、そうやって得られるより楽しい課題を求めるようになってきたのである。

 これに対して「そんなことが楽しいとは思わない」そういう方も大勢居られると思う。それが普通なのかも知れない。でも、小生にはそれが楽しいのである。

 なぜ楽しいのだろう。それは、やっぱり危険だからなのである。危ないから楽しいのである。一種の賭けだから楽しいのだと思う。ドキドキ感がなんとも言えないのだと思う。そして、その危険度を自分自身でコントロールできるから楽しいのである。他人が安全と判断する所を自分は危険だと判断して一向に差し支えが無いわけである。自分だけの判断基準に従って楽しめるから面白いのである。

 以上が最近の小生のボルダリングのスタイルなのだが、このスタイルをお勧めするつもりは無い。そして、やはり、最近はボルダリングは中高年に向いているわけではないとも考えている。従って、今までの様に中高年にボルダリングを薦めはしない。

 しかし、その余り向いていない所を逆手にとって、敢えて、ちょっぴりの危険に立ち向かうという、こういう楽しみもあるのだよと言うことだけはぜひとも申し上げておきたい。


戻る

作成年月日 平成16年 3月 2日
最終改定日 平成23年 5月24日
作 成 者 本庄 章